詩集「ママ・カクマ」(2002年)

詩集「ママ・カクマ」の編者は、2000年の夏休みを利用して、ケニアのカクマ難民キャンプで土木ボランティアに参加し、地道に活動を続けるカネブのライターたちと知り合いました。キャンプを出るとき、彼らが書き溜めていた詩をもらい、これを和訳・編集して2002年に「ママ・カクマ」を出版したのですが、その印税をカネブ発行の機材購入の為に寄付したことがきっかけで、カネブ支援が始まりました。

 

 TV、ラジオ、新聞、雑誌、そしてインターネットへ

出版以来、個人的に難民の人々の声を伝える為の広報を行ってきました。左は、印税を寄付する為、2003年の夏にカクマに戻った様子をNHK-BSが取材したものです。また、同じ頃「徹子の部屋」で紹介された様子も近々アップする予定です。最近は「広く深く」をモットーに、インターネットを通した活動に力を入れています。

 

 ■ 「無力で受身の難民」は、私達の一方的なイメージ

  • 1951年の「難民の地位に関する条約」では、難民とは「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた人々」と初めて定義されました。ところが、事実上はこのような人々は、そのはるか前、「現代国家」や「国境」が生まれる前から、いや、人類の歴史が始まった頃から存在していたはずです。つまり、そうした長い歴史の中で、彼らは突然「難民」と定義づけられ、国際社会による保護の対象となったわけです。編者が「ママ・カクマ」で強調したいのは、保護された難民の人々自身はその体験を口にする機会を与えられず、それまでの歴史の中でと同じように孤独に生きてきたという側面です。

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    • 冷戦構造が崩壊した近年、民族紛争によって流出する膨大な数の難民は世界的に注目を浴び、その姿は、国際機関やマスメディアを通して遠く離れた私たちのもとにも伝わってきます。それらの報道を見て気づくのは、膨大な「難民」の数とともに、彼らが無防備で無力な人間だということが一貫して強調されている点です。貧困、飢餓、病気に苦しむ「難民」、故郷や家族を失って絶望する「難民」、そして「私たちの国連」から基本的人権を守られている「彼ら難民」。その「惨めでかわいそうな存在」は、同じ人間の一人として私たちの心を深く痛めます。

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    • しかし、これらの難民像が、果たして彼ら一人一人の本当の姿なのでしょうか。彼らは、国境を越えた先で待ち受けていた国際援助期間に、本当に守られているのでしょうか。そうでなかったとして、彼らがそれを私たちに伝える現実的な手段はあるのでしょうか。一方的に報道される彼らは、向けられたカメラを無言のまま見つめているだけで、答えてはくれません。本書は、そんな彼らが「無言の壁」を自力で越えようと書き続けてきた詩を読者の方々に直接お届けするべく、出版に至ったものです。

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    • 編者は、「難民」の新しいイメージを意図的に作り上げようというつもりはありません。逆に彼らのことをよりよく理解しようとするなら、私たち頭脳を無意識に支配している「彼ら難民」のイメージから私たち自身を一時解放することが大切だと思っています。読者の方々が彼らの詩を読むとき、心の中に一つのスペースをあえて「開いたまま」にしておいていただければと願います。

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    • 文化人類学者のエドワード・サイードは、その著書 「オリエンタリズム」 の中で、「いったん支配の想像力から解放されれば、われわれは皆難民である」とまで言っています。彼の言葉に示唆されるように、グローバル化する世界の中で私たち自身も「難民」のごとく葛藤することになるかもしれません。もしそうだとすれば、本書に書かれた詩の奥に潜む矛盾や「欠けている言葉」が、私たち自身の奥深くにある心のスペースに、共有できる何かを投射していくれるのではないかと期待しています。 (石谷敬太 「ママカクマ」より抜粋 

 ■ 「難民」は人間を呼ぶ呼び方じゃない

  • 2000年8月、キャンプのそばにあるセスナ機用の滑走路に着陸すると、私たちボランティアは迎えに来た援助団体の車に乗せてもらって、キャンプの入り口の横にあるゲートの中へ入った。そこは、援助団体の職員が生活するコンパウンド(宿舎)の入り口であり、高い柵で囲まれてキャンプから分離されている。ゲートには、数人のガードがいて人や車の出入りを管理している。コンパウンド中では、電気と水は24時間使える上、レストランやバー、プールがあって華やかだ。私は、キャンプに到着早々、コンパウンドの内と外の生活のレベルの差に驚かされた。

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    • キャンプで働く人や私のようなボランティアの間で一番よく使うのが「難民」という言葉である。もちろん難民の人々自身の間でも頻繁に使われている。結局のところ、キャンプで生活する彼らも、キャンプに来る私たちも、この「難民」という概念があって初めてカクマで出会う存在だからだ。 しかし、あるとき、私が何かと「難民」という単語を使っていることに気がついた難民の友人から言われた。「難民」は人を呼ぶ呼び方じゃない、と。

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    • 私は、当初この「難民」というカテゴリーが、紛争を逃れてきた人々を保護するための重要な法律用語であると思っていた。しかし、今、カクマキャンプの日常では多くの場合、それが柵の中で暮らす私たちと、ゲートの外の砂漠で生活する人を分けるためにも使われる。それは、助ける者と助けられる者を分ける言葉であり、両者の生活の違い、認められている権利の違いを示唆する言葉でもあった。

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    • 援助団体の一員としてキャンプにいると、「助ける者」と「助けられる者」の二項対の世界にはすぐに気づかされるが、その間にある共通項を見つけるのは難しい。壁を越えて一人の人間として歩み寄ろうと試みても、「所詮は難民にしか分からないこと」と突き放されることが多い。逆に、彼らが一人の人間として私に語っているとき、自分で気がつかずに不適切な質問をして話をさえぎってしまうことも 多々あった。やっとある人と信頼関係ができて打ち解けたかと思 っても、次の瞬間に違う人から同じ壁を打ち立てられた。この二項対には混乱して戸惑ったが、「非難民」と「難民」の間では、誰も中立な立場ではいられないことを知った。

 ■ 「むやみに写真、とらないでほしい」

  • わたしたちボランティアはカメラを持っていった。私たちのほとんどがアフリカに行くのは初めてだったので、色々な「めずらしい」ものを撮りたかったからだ。これはもちろん、ナイロビでは問題なかった。しかしカクマ では、カメラに写りたがるのはおよそ10歳未満の無邪気な子供たちだけだということが分かった。

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    • まず写真を最も嫌がるのが、現地のトゥルカナ族の人々だ。トゥルカナ族の人々は、いわゆる「エキゾチックな」服装や飾りなどに身を包んでおり、それを目当てに写真を撮られ続けてきた経験 を持っている。ケニアの空港にいけば、トゥルカナという写真集があるし、きっと日本でも簡単に手にはいるに違いない。しかし、トゥルカナ族の人々は、訪れ た外部者から カメラでパシャパシャやられることが大嫌いだった。

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    • 一方、難民の人々はトゥルカナ族のような格好をしていないが、「難民」であることによって被写体となってきた。話しているうちに、写真のことは必ず話題にでるのだが、「国立公園じゃあるまいし、写真をむやみに撮らないでほしい」と 言われた。私は、自分自身が写真に写るのを好まないし、カメラ自体に興味をもっていなかったので、彼らのいうことがよく分かった。 だから、2000年にカメラを借りたときには、景色や夕日ばかり撮って帰った。

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    • ところが、「ママ・カクマ」の出版が決まって、詩集には写真も入れなければ読者にキャンプの様子が分からないだろうという問題が出てきた。そこで、2001年にキャンプに戻 ったときにはデジタルカメラとインスタント・カメラを10台持っていくことにした。「人の表情が写るような写真をとらなければ」と聞いていたが、 キャンプに着くとどうしたらよいか分からずに戸惑った。まず、通りかかる人々に自己紹介をして「写真をとってもいいですか」と聞いてみた。すると「何のための写真ですか?」と必ず聞きかえされ た。詩集のことを話しても、いやだという人がほとんどだったから、心地わるい気分になり、早くカメラを持ち歩くのをやめたくて仕方かった。

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    • しかしそのうち、それぞれのコミュニティーには、チーフとよばれる長老がいて、まず彼の許しを得ることが必要だということを知った。そこで私は、まずそれぞれの部族コミュニティーの長老とアポイントメント(たいていは2日間待たされた)をとることにし、食事などに招待してもらいながらキャンプに来た理由と写真の使い道を説明した。「キャンプのことを日本人に伝えるにあたって、ぜひうちのコミュニティーも入るべきだ」というのが大半のチーフの意見 だった。こう いうときには、コミュニティーで写真を撮ることが、楽しい作業になった。写真を撮ってデジタル画面に映った映像をすぐに見せられたので、盛り上がったこともある。チーフは自分たちの出身地域や部族の話を 盛んにしてくれた。写真をとるために 持っている中で一番きれいな服に着替えたり、家族を呼んできたりする人が多かった。

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    • 一方、持ってきたインスタント・カメラは、ライターズ・クラブの有志に渡して、自由にキャンプ生活を撮ってもらった。彼らは詩を書いたことをどのようにして映像で伝える べきかを考えながら、キャンプ中を歩き回って取ってきてくれた。こうして撮られた写真は、みんな笑顔で楽しそうにしており、一見それが「難民」の人々とは分からない。 いわゆる「絶望的な表情をした難民」は一体どこにいるのか、と思うほどである。しかし考えてみれば、テレビでみたあの典型的なアフリカ難民の表情の多くは、実はいやいや ながら写真を取られることに対する気持ちや緊張感が表れたものにすぎないのではないか、と思った。

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    • 私にはテレビでよく見るような難民の「悲惨な姿」は撮れないと思った。なぜなら、カクマキャンプではどんなに空腹でボーとしている人々でも、写真を撮ってほしいと了解する人は笑顔で写るから だ。人々が様々な内面的問題を抱えていることが事実だとしても、それを外部の人に写真で撮られたいと思う人は一人もいないに違いない。

  ■ 「赤の他人のあなたに話してもいいのか?」

  • 私は、図書館の建設を一緒に手伝ってくれたエチオピアの難民の一人と仲良くなった。聞けば、彼はもともとはライターズ・クラブで詩を書いていたとのことで、オーストラリアで出版された「Tilting Cages」にも彼の物語りが載っていた。しかし、数年前に詩を書くのを一切やめてしまったという。「詩を書き続けるのがつらくなった」というのがその理由だった。

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    • そこで、私は彼にまた詩を書いてみる気があるか聞いてみた。彼はその場では前向きな返事をしたが、1ヶ月間がすぎても詩の内容を考えていていいアイディアが思い浮かばないといっていた。彼は物静かな人で、とてもやさしい心の持ち主だった。色々話をするうちにすっかり打ち解けて、エチオピアの正月(は9月)のお祭りに呼ばれた。そこで歌ったり踊ったりしながら夜になってしまったので、キャンプ内の彼の家に泊まることにした。これは、 援助団体の職員は7時までにコンパウンドに戻らなければならないというルールを無視することを意味したが、彼は「そんなの関係ない」といっていた。夜中をキャンプの中ですごすのは初めてだったが、私はとても有意義な話をした。 詩を書くことの意義やこれまでに書かれた詩でお互いが知っているものについて話が弾んだ。「あの作者はこういいたかったんだ」とか「この詩だけは特別だ」とかいった具合にである。こうしているうちに私たちは互いに共通点が多くあることに気がつき、非常に仲良くなった。

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    • 私が帰るころ、彼が「詩が書けた」といって一枚の紙を渡してくれた。その詩は、昔彼がキャンプでみた飢餓のことが書かれていた。そしてその一節には、「赤の他人にせがまれたからといってこんなありさまを話していいのか?」という彼の正直な気持ちがあった。 数日後、彼は私に詩の意味が分かったか聞いてきた。そして、この「赤の他人」が、「詩をかいてみては?」と当初気軽に話しかけた私のことだと教えてくれた。何でも話し合う仲になっていた私たちは、そのことに大笑いしたのはいうまでもない。

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    • 彼をはじめとしてカクマで会う詩人たちに教えてもらったのは、当たり前のことではあるが、詩を書いたり、身の上話をするというのは自発的行為であって、人から頼まれてすることではない ということである。カクマキャンプでも、彼らの詩が誰によってどのように使われるのかを知らされないとき、またはそれについて信用がないとき、詩は書かれない。 「思い出すのがつらいから」というのは、多くの場合、それを心から聞く人が外の世界にいないからだ。彼らが詩を書かないとき、それは彼らが書く能力を持っていないのではなく、 書く内容を持っていないからでもない。そうではなくて、彼らの私(をはじめ難民となった経験を持たない人々)に対する信頼関係が 十分でないことが一番の壁になっている。

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    • 2ヶ月間しかキャンプにいられなかった私は、どのようにすれば信頼関係が築けるのか悩んだこともあった。 詩という共通項を通して、もっと分かり合いたいという好奇心がそうさせた。結局、自分でも詩を書いてみて、それが下手で薄っぺらな詩であることを知りながらも彼らと共有することにした。はじめは恥ずかしかったが、そうすることに新鮮な楽しみを覚えたとき、 お互いの不信感や恐怖感は自然と薄れていくのを感じた。

 ■ 同じスーダン人でも、ディンカとヌエールは違う

  • カクマキャンプを訪れるたき、民族や文化というものを勉強したわりには鈍感だった。カクマには8カ国の紛争を逃れてきた人がいると知ったとき、それだけで混乱してしまった。一見すると、誰がどこの国のどういう状況を逃れてきたのか分からない。ただ、2週間が過ぎるころ、それぞれの国の違いが何とか分かるようになった。自慢ではないが、たとえば英語をしゃべるコンゴ人、スーダン人、ソマリア人、エチオピア人にキャンプ内で同時に出会ったとしても、何も質問することなく見分けることが出来るようになった。

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    • ところが、カクマにいるスーダン人の中には少なくとも39の異なった民族がいることを聞いてびっくりした。よく目を凝らすと、みんな違うところに住んでいる。そういえば、スーダン国籍を持っている人に、どこの出身かの話をするとき、必ずスーダンのどこの地域から来たのか教えてくれる。しかしこのような事実は知っていても、スーダン国内の複雑な民族間関係の重要性は最後になるまで分からなかった。あるとき彼らの書いた詩を理解しようとしたつもりで、私自身の無知さをさらけだしてしまった忘れられない体験をしたので、反省の意味をこめてご紹介させていただきたいと思う。

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    • それは詩の内容の解釈に悩んだところを作者本人にインタビューをするため、2001年にカクマに戻ったときだった。インタビューをしたい人の名前をKRLCの集まりで発表し、それぞれ都合のいい時間を選んでもらって自分の気に入った木陰で待ち合わせた。ある日、約束の時間に2人のスーダン人の作者が来て、「僕たちは兄弟だから一緒にインタビューを受けたいと思って・・」とやってきた。彼らは、2人とも「平和」について書いたという。彼らの詩は希望に満ちていたので、私も「平和」について書いた詩だということは分かっていた。これは、「ママ・カクマ」の最後の章に載っている「僕の夢」と「切望」である。そこで私たちは、キャンプ内のレストランで買ったコーラを飲みながら話し始めた。

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    • 「僕の夢」については思ったとおりの解釈でよかった。そこで、私は「切望」という詩の中で妙に疑問に思った部分について、作者の少年マークに質問した。それは彼の詩の最後のバースについてである。

    •  

    •      同郷の仲間たち

    •      祖国から寄生虫をおっぱらおう、力を合わせて

    •      汚らわしい手を使うんじゃないぞ

    •      手をとりあって

    •      平和と自由をおいかけよう

    •      祖国に自由をとりもどすために

    •  

    • 私が気になったのは、「祖国から寄生虫をおっぱらおう、力を合わせて」という表現だ。私は、「寄生虫をおっぱらう」ことが平和と自由を求める手段だという考え方が、スーダンの南北戦争を激化させてきた原因なのではないか、と質問した。これを聞いたマークは首をふったが、どのように私に説明していいか分からなくなっていた。そこで、私は更に聞いた。「平和を追いかけるために戦いが必要ならば、やはり平和はこないのでは?」と。

    •  

    • この質問にマークは答えられなかったので、「自分は意地悪な質問をしている」と思い、話題をそらそうとした。しかし、横で聞いていた兄サミーが耐え切れない様子で割って入った。「マークは間違っていない」というのだ。そして、「スーダンのことを十分知らないからそういう質問をするんだ」と言われた。そこで、一応勉強したスーダンの南北戦争の青写真を彼らに話してみた。私も全くの無知ではないことを伝えたかったのだ。そして私は、この詩がスーダンの北部イスラム勢力を(彼らの出身である)南部の人々が「追っ払らう」ことで、スーダンを統一しようといっているふうに聞こえると再度話した。それは、私の思い描く平和への道とは程遠いものだったからだ。

    •  

    • しかしその直後、私は彼らから驚くべき説明を受けることになった。彼らによれば、この詩は南北戦争についていっているのではなく、南部の民族紛争のことをいっているということだった。実は、南部の民族間紛争についてほとんど気にしていなかったので、閉口した。なるほど、南部の民族紛争のことをいっているならば、南北戦争は終わらないにしても、詩の意味は一貫していると思った。

    •  

    • しかし私はぜんぜん甘かった。

    •  

    • 私の曖昧な反応にいらいらした兄サミーは、彼らの身の上話を始めた。実は、彼らは本当の兄弟ではないという。更に彼らは、ヌエール族とディンカ族という違う民族の出身だったのである。この2つの民族は、1991年に内部勢力の分裂したときから戦闘を始めた。

    •  

    • サミーとマークは、それぞれ1987,88年に北部勢力が村に侵攻してきたとき、両親を殺され、孤児となってエチオピアに逃げた。エチオピアのパニイド・キャンプに保護されたとき、たったの10歳と5歳だった。彼らはそこで同じ家に育ち本当の兄弟のように暮らしはじめた。

    •  

    • ところが、彼らがカクマに輸送されてきたとき、ヌエールとディンカの紛争が始まった。サミーは、真剣なまなざしで「僕たちの祖国で殺しあっている。僕たちだってスーダンに戻れば銃をとって撃ち合っているはずなんだ」と言った。これは、彼らの住むカクマキャンプにも波及して、現在にいたるまでキャンプ内の両民族間に緊張が残っているほどである。

    •  

    • しかし、両親を失った彼らは同じ家に住み、兄弟として助け合って生きてきた。周りの大人たちがキャンプ内でディンカだ、ヌエールだと衝突しているときでも、彼らは2人で手を取り合って耐えてきたという。だから、彼らはヌエールとディンカが早く仲直りしてほしいと一心に願いながら生きてきたのだった。2001年には、この紛争は終結したことになっているから、彼らの夢がやっとかなった訳であるが、その10年間は辛いものだったという。

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    • これを聞いたとき、とてもショックを受けて、自分の頭を切り落としてしまいたかった。私は教科書で読んだマクロな紛争の話と平和の理論を持っているだけだった。そして、半生を、しかも等身大で平和を実践してきた歳下の兄弟に向かって「平和とは何か」を垂れたのだ。彼らは自分を難民孤児に追いやった南北戦争を批判したのではなく、一番大切なお互いを守りながら平和を訴え続けてきたのに、である。紛争をしている民族間が分かれて居住しているカクマ・キャンプで、その境目線を越えながら兄弟でいることが、いかに辛いこともあったかと思うと、涙が出そうなぐらい感動した。サミーが話し終えたときには、何がなんだか分からずに彼らの詩を読み返すことしか出来なかった。今度は、そのすべてがすばらしい詩に思えた。彼らはこの私のありさまに笑いながら、「やっと分かってくれたか」と満足したようだった。彼らの姿は、100倍輝いて見えた瞬間を今でも忘れられない。

    •  

    • その後、私は、民族や部族のことに異常に敏感になったことはいうまでもない。キャンプを出てからもそれを強調しつづけてきた。繰り返しになるが、カクマキャンプにはスーダン人だけで少なくとも39の民族が居住している。

 ■ 「何の為に私達の詩を出版したいのか?」

  • カクマに着いてから一ヶ月、気が付けば、ボランティアの土木作業をするかたわら、カネブのライター達の集まりには毎回参加 していた。集まる場所は、仕事が終わって熱気が引いた夜、学校や図書館、レストランや野外とその時々に確保できる場所によって変わった。そして、自分たちが書いた詩や物語り、新聞記事について話し合った。私は当初、これを聞く側にいたのだが、そこで出会う多くの詩に感動した。 話し合った詩のほとんどは、カネブ新聞に取り上げられてキャンプ内で出版されたが、キャンプの外には出たことのない詩 ばかりだった。彼らが持っていたこのような詩は100編を超えていた。そこで私は、日本で詩集を出版してみてはどうかと提案してみた。

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    • この提案は我ながらいいアイデアだと思っていたし、NGOの数人も個人的に応援してくれていたので、カネブのライターたちも当然喜んで協力してくれると思った。しかし、彼らは驚 かなかった。かわりに、「何のための出版か」「誰のための出版か」と聞いてきた。彼らにとって、「詩の出版」はキャンプ内新聞であるカネブがすでに行っていたので新しいことではなかった。また、キャンプの外で使われる詩については、それがどのような意味のあることなのか不審に思っていた。私のような人間が過去に何度もキャンプを訪れ、そのたびに色々な理由をつけて詩や写真をとって行ったが、その後に音沙汰あるのは皆無に近いといわれた。出版物は、ある目的を持って出版されるもので、その目的によっては彼らの詩が不当に使用される可能性が高いということも熟知していた。何のために詩を出版するかによって、書く内容が制限されることになるとも言われた。出版するのは、NGOか、出版社か、それとも自費出版なのかでも変わってくる。また、カネブのライターたちの詩だけを出版するのか、それともNGOが集めた詩も含めるのか、またはキャンプ全体から詩を集めてくるのか、収益金はどうするのか、彼らにとって重要だった。これらの疑問は、考えてみれば当たり前のことだったのに、そこまで深く考えずに出版の話をした自分が恥ずかしくなった。

    •  

    • そこでまず、彼らの集まりの数回を詩集の話し合いのために割いてもらって、出版の目的についての話し合いをした。これは、「Tilting Cages」の前例をもとにして進んだ。その結果、@日本の一般の人々に難民である彼らの声を伝えることと、A 詩集の収益金で彼らの活動を支援をすること、が目的となった。一方で、私は具体的な出版の話ができずに戸惑った。出版社も知らずに何てことを提案してまったのだろうと後悔し、そのことに少し緊張もした。しかし、言い出した自分がそれではダメだと思い直し、出版社が見つからなかった場合にでも自費で出版することをその場で決心した。今考えれば、 私としてはそうとう思い切った決心だった。しかしそのときそうしなければ、出版の話をすること自体が、彼らをだましていることになる気がしたからだ。

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    • それ以外の問題もあった。私は、詩を書くのがカネブのライターたちだけではないと知っていたので、当初は援助団体とも協力しながらキャンプ全体から詩を集めたいと思っていた。しかし、話し合いの末、援助機関を通さずに自分たちの詩集にするということで意見が一致した。そしてそれは結果的にもそうなった。KRLCを支援していたWindle TrustというNGOは、この詩集の件について一切関与していなかったからである。また他のNGOも当初は協力してくれたものの、その呼びかけに対して詩はあまり集まらなかったし、途中から詩集のことは忘れられていた。それでもキャンプ全体から300篇もの詩が集まっていった。これはカネブのライターたちが全面的に協力してくれたからである。

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    • したがって「自分たちの詩集にしたい」というのは、カネブのライターたちの正当な言い分だった。私は、「詩集の収益金をカネブに返すこと」を彼らにはっきり約束した。 現実問題としてこれはそう簡単なことではなかったのだが、それが正しいことであるのには変わりないと思ってそう言ったのである。彼らの中には、私が果たして戻ってくるか疑問もあったかと思うが、私がキャンプを出るときそれを口に出す人はいなかった。このときに彼らと交わした硬い握手は、 私に彼らの信頼を伝えてくれた。「詩を安全に持って帰って、日本の一般の人々に伝えてください」と言われたのが印象的である。また、私自身もそれをプレッシャーとは感じなくなっていた。

 彼らの心の重い扉が、少しだけ開きかけている

  • 詩を翻訳するのははじめての経験。ひどく難しかしい仕事ではあったが、一作ごとにただならぬ感動を覚えながらの作業だった。

     

    • カクマキャンプの住人たちの経験は、我々が思いを馳せることすらできないほど辛く厳しいものだったはずだ。彼らはその重い体験を、長いことひとりでかかえ、不本意ながらじっと心にしまいこんできた。彼らのなかには、かかえこんでしまったものを、絵画や彫刻にそっと忍ばせて表現しようとしている者もいるようだ。やり場のないいらだちを音楽やダンスにぶつけてきた者もいる。だが、美術や音楽は、我々のようにぬるま湯にどっぷりつかって、感性が極端に鈍くなってしまった者に訴えかけるには、少々手ぬるい手段なのではないだろうか。 それが文字で書かれたものとなると、そのインパクトはかなり強烈で、鈍感になってしまっている我々も、さすがに心を素手でゆさぶられるような感動を覚える。

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    • カクマの住人たちのなかで文学を愛する人たちは、ライティング・クラブというサークルに集まって、詩や小説を書いているそうだ。今回、私たちが手にした彼らの詩は、日ごろ発表の場がなくてやむを得ず心にたたみこんでいた彼らの体験と思いが 、一挙にエネルギーを得て、ほとばしり出たもののような気がする。彼らは詩という、比較的内面を語りやすい手段で、自由に思いのたけを吐露している。しばし心を遊ばせながら、くつろいでいるようにみえる詩もある。もちろん、深い傷を負った彼らの心のひだはあまりにもこみ入っていて、そこに分け入るの がきわめてむずかしい詩もある。

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    • 彼らの心の重い扉が、いま、ようやく少しだけ、開きかけている。ぜひこの本を手に取って読んでいただきたい。扉の隙間から、彼らの心がかいま見えるはずだから。(石谷尚子) 

 

『ママ・カクマ

〜自由へのはるかなる旅〜』

価格1600

 

石谷敬太編

石谷尚子訳

200211

 

出版 評論社

162-0815

東京都新宿区筑土八幡町 2-21 

TEL (03)-3260-9409

 

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『傾いた鳥かご』

 

 

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『生きがいを持てる人生メニュー 

〜ボランティア活動とネットワーク作り〜』

 

価格1600

 

野口桂子著

 

200511

 

出版 社会評論社

 


 

 

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